2009年12月08日

防災訓練

防災訓練(ぼうさいくんれん)とは、災害などに備えた訓練一般を指す。
古くは、バケツリレーなどの集団行動的な者が多かったが、現代では消火器の取り扱い、土嚢の作製、迅速な避難など火災消火を主とした物から地震や水害など広範囲に渡って訓練を行う様になった。古い防災訓練は江戸の町火消に見られる様に梯子を使ったものなどがあり、正月の出初式等に受け継がれている。

日本では関東大震災のあった9月1日を、1960年に防災の日と定め、国を挙げての防災訓練が行われている。その他、静岡県では7月第一土曜日を「地震津波対策の日(1993年北海道南西沖地震に拠る)」、12月第一日曜日を「地域防災の日(1944年東南海地震に拠る)」、また、福井市では6月28日(福井地震)から7月18日(福井豪雨)までを「皆で防災を考える21日間」として、いずれも県・市をあげて防災訓練が行われる。また、阪神・淡路大震災のあった1月17日近辺にも防災訓練は行われる。

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トンネル内事故による、火災発生時の訓練、高速道路の多重衝突事故による訓練。
主に、河川の流域地域で行われる。主な物は堤防の決壊に供えた土嚢の作製、水防工法の実施、決壊時の避難、誘導などである。水防訓練ともよばれる。
主に初期消火を目的とした訓練が主だが、消防署などではコンビナート火災、ビル火災など様々な火災に対応した訓練が行われている。

近年、レスキュー用の設備が充実したため、レスキューを含めた訓練の充実が図られる様になった。
コンビナート火災に於いては周辺住民の避難訓練も行われる事がある。
火災訓練に加え、大規模な避難訓練、救助訓練が加わる。特に、阪神・淡路大震災以降最も重要視されている訓練でもあり、防災の日に行われる訓練は地震を想定した物である。

2009年11月30日

最新または開発中の迫撃砲

機関銃や榴弾砲の基本構造が80年前にほぼ完成され現代でもほとんど変化していないのと同様に、迫撃砲のメカニズムも砲本体の構造は既に固まっているため、冷戦後の1990年代に入ってからは砲弾や給弾機構、射撃管制システムの改良が開発の主眼となっている。

例えば、スイスのRUAG社が開発した120mm迫撃砲射撃システム"BIGHORN"は、セミ・オートマチック装填方式のため比較的軽量で高い発射速度を確保しており、歩兵戦闘車などに搭載して高い機動性を発揮する。STRIXなどの誘導砲弾も使用でき、操作性の高い射撃管制システムが攻撃をアシストする。

また、フィンランドのパトリア社およびスウェーデンのBAEヘグルント社が協同で開発した"AMOS"も連装型の120mm迫撃砲射撃システムで、車両だけでなく小型舟艇にも搭載が可能となっている。単装型は"NEMO"と称する。いずれも平射が可能で近距離戦闘にも対応できる。

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アメリカ海兵隊においてもEFSS"DragonFireII"を開発中であり、歩兵戦闘車クラスの車輌に搭載できる120mmクラスの自動装填式迫撃砲と新型の射撃管制システムを統合したユニットの開発が近年の傾向である。

これらの射撃システムを搭載した車輌は、射程こそ短いものの迫撃砲の速射性を併せもつため軽量ながら従来型の自走砲よりも大幅に攻撃力が向上している。装輪タイプの車輌に搭載されたものも多いが、装輪車輌は砂漠や泥濘地以外なら装軌車輌よりも機動力が高く、流動的な戦闘の推移にも迅速に追随でき、戦場の変化に柔軟な対応が可能である。また、小型舟艇にも搭載可能であることから、沿岸部や河川等での地上・水上戦闘における戦術も変化することが予測される。

2009年11月26日

皇宮警察や警視庁の監視がある

公園というが、遊具などはなく、広場の散策や江戸城の歴史に触れる憩いの場として見る向きが強い。また、皇居に隣接してある性質上、皇宮警察や警視庁の監視がある。

皇居前広場 - 皇居外苑の代表的な広場。非常に広大な広場で、都心とは思えないほどのとても開放的な雰囲気である。砂利の部分と、芝生と黒松が植わっている広場からなっている。周辺の丸の内や日比谷のオフィスビルが一望できる。広場の間を内堀通りが縦貫している。皇紀2600年を記念して現在の姿になった。戦後、左翼勢力により「人民広場」と称された時期もあった。
二重橋 - 皇居に架かる代表的な橋。かつて橋が二段構造になっていたので、この名がついた。普段は立ち入れず、皇居前広場から眺めることしかできない。詳細は当該項目参照。
桜田門 - 皇居にある代表的な門。重要文化財に指定されている。現在でも通行することができる。詳細は当該項目参照。
坂下門 - 現在は宮内庁の通用門として使用されている。幕府の老中であった安藤信正が襲撃された坂下門外の変はここで起きた。
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楠正成像 - 別子銅山開山200年を記念して住友家が企画し作成され、宮内庁に献納された。1904年に完成した、都内の代表的な銅像。作成者は正成像が高村光雲、馬は後藤貞行。
和田倉噴水公園 - 和田倉地区にある噴水公園。今上天皇の成婚を記念し、1961年に開園。その後、現皇太子の成婚を記念して整備され、1995年に現在の姿になる。高さ8.5mまで吹き上げる大噴水やその周りを彩るの小噴水は芸術的である。夜になるとライトアップされ幻想的な雰囲気になる。特に夏場は涼を求めて多くの人が訪れる。
楠公レストハウス - 楠正成像のそばにあるレストラン・休憩所。
また、隣接して皇居東御苑があり、江戸城の遺構などを見ることができる。

2009年11月10日

国連軍のアメリカ極東海軍司令官は

12月15日に、国連軍のアメリカ極東海軍司令官は文書を以て掃海作業の終了を指示する。これにより日本特別掃海隊は解隊される。

特別掃海隊は、1950年10月から12月15日にかけて、46隻の掃海艇等により、元山、仁川、鎮南浦、群山の掃海作業に当たり、機雷27個を処分する成果を挙げた。この作業により、海運と近海漁業の安全確保を得たと同時に、国連軍が制海権を確保する為に役立ち、後の朝鮮戦争の戦局を左右する事になる。しかし、極秘である筈のこの作戦はアメリカ及びCIAの支援を受けた自民党がひた隠しにしていたが、ソ連や中華人民共和国からの情報提供を受けた日本社会党と日本共産党にすっぱ抜かれ、第10回国会以降吉田茂首相への攻撃材料となった。

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なお、国連軍の指示に従わず帰投した能勢事務官は1951年1月に運輸事務官を退職することとなるが、1952年7月に海上保安官として採用され、同年8月西部航路啓開隊司令に任じらる。その後は、海上自衛隊に入隊し横須賀地方総監部副総監等を歴任し、昭和34年に退官する。

また、第5掃海隊指揮官の大賀良平運輸事務官は、その後も海上警備隊員、警備官、海上自衛官に進み、昭和52年に海上幕僚長となる。

2009年10月30日

毒性学

毒性学(どくせいがく)とは、毒性、すなわち物質等による生物への悪影響に関する科学の分野である。具体的には、物質の種類や物理的・化学的性質と毒性との関係、毒性による症状およびその治療法、生物体内で毒性が発現する機序などを対象とし、物質のほかに放射線や紫外線などの物理的作用を対象に含める場合もある。一般に毒あるいは毒物、毒薬などという場合には毒性(特に急性毒性)が強い場合をいうが、毒性学の対象にはそれ以外の物質(たとえ食塩や砂糖でも大量に摂取すれば毒性がある)も含める。薬学、医学あるいは獣医学の1分野である。特に医薬品はその効力とともに強い毒性も併せ持つことが多く、開発に当たっては毒性を明らかにすることが不可欠である。また化学物質の法的規制の基礎を科学的に研究する分野<レギュラトリ・サイエンスRegulatory science>の中でも重要な位置を占める。
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普通、生物としてはヒトまたは家畜を対象とする。野生生物を対象とする生態毒性学は別分野とすることが多い。環境毒性学は生態毒性学と同じ意味に使うことが多い(「環境中の有害物質による毒性の科学」の意味にも用いる)。

対象生物の名を冠してたとえば「植物毒性学」とか「魚毒性」といった用語も用いられる。特定の対象生物にだけ毒性が発現することを指して「選択毒性」という。たとえば抗生物質は病原菌だけに、殺虫剤は対象とする害虫だけに選択毒性を発揮するのが望ましい。

なお俗に病原体の病原性の強さを指して「毒性」というが、これは普通、毒性学の範囲には入れない(病原体の出す毒素そのものは扱う)。

2009年10月20日

ネオダダ

ネオダダ(Neo-Dada)は、作品制作の方法論や意図が初期のダダイスムと類似点を持つ、1950年代後半から1960年代のアメリカ合衆国の美術家や美術運動を表すのに使われた用語である。

もとは、1958年のアートニューズ誌において、当時廃物や大衆的なイメージを使用した絵画で抽象表現主義に替わり注目を浴びつつあったロバート・ラウシェンバーグやジャスパー・ジョーンズといった画家、ハプニングなどのパフォーマンスアート活動を行っていたアラン・カプロー、クレス・オルデンバーグ、ジム・ダインなどの作家たちを一括りに特集し、美術評論家ハロルド・ローゼンバーグがこれらにネオダダと名づけたことがはじまりである。以後、評論家バーバラ・ローズによって「ネオダダ」と言う用語は1960年代に広まり、おおむね1950年代~1960年代にこれらの作家によって行われた活動を指して使われる。

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ネオダダの作品の例としては、既製品の使用(レディメイド)や大衆的な図像の流用(アッサンブラージュ、コラージュ)、そしてその不条理性などがある。また伝統的な芸術や美学の概念を否定する反芸術的なところもある。これらの手法や反芸術性が、新たなダダイスムとみなされた要因である。確かにロバート・ラウシェンバーグの、既製品を組み合わせて(コンバインして)その上から絵具を塗りつけたコンバイン・ペインティングなどはレディメイドやアサンブラージュなどと形式上共通点がある。

しかし、ネオダダは、概念や言葉の実験としてのレディメイドなどを制作した第一次世界大戦後のダダイスムとは時代背景が異なり、より工業化や大量生産・大量消費が進み廃物があふれていた時代のアメリカを舞台としているため、新品よりは廃物を好んで用いたり新品を廃物同様にするなどより即物性や即興性が強い。

2009年06月20日

X線回折(えっくすせんかいせつ)

X線回折(えっくすせんかいせつ、X-ray diffraction; XRD)とは、X線が結晶格子によって回折される現象のことである。1912年にマックス・フォン・ラウエがこの現象を発見し、X線の正体が波長の短い電磁波であることを明らかにした。

逆にこの現象を利用して物質の結晶構造を調べることが可能である。このようにX線の回折の結果を解析して結晶内部で原子がどのように配列しているかを決定する手法をX線結晶構造解析あるいはX線回折法という。しばしばこれをX線回折と略して呼ぶ。他に同じように回折現象を利用する結晶構造解析の手法として、電子回折法や中性子回折法がある。

1895年にヴィルヘルム・レントゲンがX線を発見。1912年にマックス・フォン・ラウエが硫化亜鉛結晶によるX線回折現象を発見し、続く1913年には、ヘンリー・ブラッグとローレンス・ブラッグの父子がブラッグの法則を発表してX線回折による構造解析に理論的な基礎を与えた。1916年にはピーター・デバイとパウル・シェラーが粉末試料から構造を解析するデバイ--シェラー法を発表し、X線回折による構造解析が広く行われるようになった。
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マックス・ペルーツによる重原子同型置換法やハーバート・ハウプトマンによる直接法などの開発、さらには放射光やコンピューターの進歩により、X線回折法は複雑な結晶にも適用が可能となった。

20世紀中頃には、X線回折法は構造生物学においても広く用いられるようになった。特に1953年のロザリンド・フランクリンによるDNAのX線回折写真は、二重螺旋構造解明に重要な寄与をしたことが知られている。X線回折による生体分子の構造解析はその重要性から繰り返しノーベル化学賞の対象ともなっており、1962年にジョン・ケンドリュー(ヘモグロビンの構造決定)、1964年にドロシー・ホジキン(ペニシリンなどの構造決定)、2003年にロデリック・マキノン(カリウムチャネルの構造決定)が受賞している。

2009年06月02日

赤色労働組合インターナショナル

赤色労働組合インターナショナル[独]Die Rote Gewerkschaftsinternationale[英]The Red International of Labour Unions, 通称・プロフィンテルン(Profintern)は、1921年にコミンテルンの後援のもとに創設された国際組織。

1920年夏に開かれたコミンテルン第2回大会において、ロシア・イタリア・ブルガリア・イギリス代表団とフランスの極左派を代表するグループが800万の組織労働者を代表して発言すると称して、国際労働組合評議会(メジソヴプロフ)の創設を決定した。その主要な機能は「赤色労働組合の国際大会」を組織することだった。ロゾフスキーが新評議会の議長となり、トム・マンとロスメルが副議長となった。この評議会は活動や権威の点で最初から、コミンテルン執行委員会に依存していた。各国の労働組合を国際労働組合連盟(本部はアムステルダム)から切り離すために、さまざまな国に「宣伝局」を設けたため、アムステルダムよりもモスクワへの忠誠をうながし、世界の労働組合を分裂させようとしているという非難が、特にイギリス・ドイツで起こった。
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1921年7月3日にプロフィンテルン創立大会が開かれ、41ヵ国から380人の代議員が集まり、全世界の労働組合員総数4000万人のうち1700万を代表すると称した。そこで「黄色アムステルダム・インターナショナルの曖昧なブルジョア的綱領に明確な革命的行動綱領を対置すること」がプロフィンテルンの任務であると宣言された。プロフィンテルンはコミンテルンや第三インターナショナルと緊密な結びつきを保つべきだという基本姿勢も確認された。大会には日本・中国・朝鮮・インドネシアからの代議員も出席し、「近東および極東の労働者」にプロフィンテルンへの加盟をうながしており、ヨーロッパの労働者にもっぱら限られていたアムステルダムとの差異を見せた。

1922年11月の第2回大会では、アムステルダム・インターナショナルとの「統一戦線」というプロフィンテルンからの呼びかけがともに無視されたことを記録し、ヨーロッパでのプロフィンテルンの組織は後退しつつあるが、極東での宣伝活動が重要になりかけていることを明らかにした。

しかしこれ以後、プロフィンテルンは改良主義的組合との妥協を許さない戦いを推し進めていくことによって、かえって「大衆的基盤を喪失」してしまい、1930年8月に開かれた第5回大会でロゾフスキーは新しい赤色組合の性格やそれを実現するための条件を規定することができず、1928年第4回大会のスローガン「工場の中へ!職場の中へ!大衆へ!」を繰り返すほかなかった。コミンテルンと共同で発せられた日本共産党への指示は31年テーゼと呼ばれたが、何らの成果も生まず、日本の現状認識を誤ったものとされてすぐに廃棄された。全ヨーロッパの組合や大衆の中で、プロフィンテルンは不満を持った失業者しか集められない少数派にすぎなかった。プロフィンテルンはいままで戦っていたアムステルダム・インターナショナルとの「統一戦線」という政策転換を行おうとするが、1935年7月のコミンテルン第7回大会で、「労働組合内部での広範な活動」つまり多数派との妥協へと早急に移行しなかったという批判を受け、「大衆組織」をつくることに失敗したことが明らかとなり、1939年までにプロフィンテルンは解体させられた。

2009年04月29日

神代文字

神代文字(じんだいもじ、かみよもじ)とは、漢字が伝来する以前に古代日本で使用されていたとされる日本固有の文字の総称である。江戸時代にはその実在を信じていた学者も少なからず存在したが、近代以降の日本語学界をはじめとするアカデミックの世界では、現存する神代文字は古代文字などではなく、すべて近世以降に捏造されたものであり、漢字渡来以前の日本に固有の文字は存在しなかったとする説が広く支持されている。その一方で、古史古伝や古神道の信奉者の間では、神代文字存在説は現在も支持されているが、神代を語れぬ伊勢派が作り出した偽作であるとして排する者もいる。

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神代文字の存在の可能性についてはじめて言及したのは鎌倉時代の神道家である卜部兼方である。兼方は『釈日本紀』(1301年以前成立)の中で、父・兼文の説として「於和字者、其起可在神代歟。所謂此紀一書之説、陰陽二神生蛭児。天神以太占卜之。乃卜定時日而降之。無文字者、豈可成卜哉者。」と述べ、神代に亀卜が存在したとの日本書紀の記述から、文字がなければ占いが出来るはずがないとして、何らかの文字が神代に存在した可能性を示した。兼方自身はその候補として仮名を考えていたようであるが、爾来卜部神道の間では仮名とは異なる神代文字の存在を説くようになった。たとえば、清原宣賢(吉田兼倶の子)は『日本書紀抄』(1527年)において「神代ノ文字ハ、秘事ニシテ、流布セス、一万五千三百七十九字アリ、其字形、声明(シャウミャウ)ノハカセニ似タリ」と、神代文字の字母数や字形等の特徴についてかなり具体的に述べている。にも拘らず、室町時代までは神代文字の実物が示されることはなかった。江戸時代に入り、尚古思想が高まるにつれて、神代文字存在説もますます盛んになり、遂に神代文字の実物が登場するに至るのである。

江戸時代以降、神代文字として紹介された文字は実に数十種類にも及ぶ。それぞれ出典となる書籍や発見場所などの名前が付けられている。神代文字存在説側の研究としては、平田篤胤が神代文字否定論から肯定論になって最初の論である『古史徴(こしちょう)』第1巻『開題記』所収「神世文字の論」その後の『神字日文傳(かんなひふみのつたえ)』とその付録『疑字篇』が著名である。また、鶴峯戊申(つるみねしげのぶ)は『嘉永刪定神代文字考』において天名地鎮(あないち)文字を世界のすべての文字の根源であると説いた。これらの存在説を集大成したものが落合直澄の『日本古代文字考』である

2009年04月14日

袁 煕(えん き)

袁 煕(えん き、? - 建安12年九月(207年))は、中国の後漢時代末期の武将。字は『三国志』魏書袁紹伝では顕奕(ちくま学芸文庫版は「顕突」となっているが、誤り)、『後漢書』袁紹伝では顕雍。豫州汝南郡汝陽県の人。後漢末の諸侯の一人袁紹の次子。袁譚の弟、袁尚の兄。従兄弟に高幹。また、袁買は、袁煕の弟という説の他に、袁尚の兄の子という説もあるが、その場合は、袁煕にとって子、甥のいずれであるかは不明である。

建安年間(恐らくは公孫瓚が滅亡した建安4年(199年))、袁煕は幽州刺史に任じられている。袁煕は任地に向かう一方で、その妻の甄氏(後の魏の甄皇后)は鄴に残って姑を世話していた。

建安7年(202年)に袁紹が後継者を定めないまま病没すると、兄の袁譚と弟の袁尚がそれぞれ後継を表明する。家臣団の支持も喰い違い、袁氏の勢力は二分されることになる。実子であるにもかかわらず、袁煕がこの争いに積極的に加わったとされる記載は無い。

建安9年(204年)、弟の袁尚が曹操および袁譚に敗れると、これまで曹操と敵対していなかったにも関わらず、あえて袁尚を管轄地の故安に迎え入れて助けた。この行動は幽州の豪族に反感を抱かれ、結果、部将の焦触、張南ら多くの離反を招いてしまい、袁煕は袁尚と共に遼西の烏丸の土地に逃れた。建安12年(207年)、遼西に進軍してきた曹操を、袁煕・袁尚は烏丸王蹋頓らと柳城で迎撃したが再び敗れ、最後は遼東の公孫康を頼って落ち延びる。

しかし曹操を恐れた公孫康は袁煕・袁尚を斬って曹操への手土産にしようと企み、2人を偽って歓迎した。袁煕は疑いを抱いたが、むしろ公孫康の軍を奪い取ろうとしていた袁尚は、強がって公孫康の下に向かう。結果、2人は公孫康の騙し討ちにより殺害され、その首級は曹操のもとに送られた。なお、『三国志』魏書袁紹伝(付、袁譚・袁尚伝)注に引く『典略』によれば、処刑直前に袁尚は寒がって筵を求めたが、すでに覚悟を決めていた袁煕は「首級が万里の旅に出るのに、なぜ今さら筵がいるのか」と弟を窘めた[1]。

曹叡の実父説 [編集]
袁煕の妻は名門の甄氏の娘(甄皇后:のちの魏の明帝曹叡を生む)で、類まれな美貌であった。鄴城陥落の際、攻め手の将であった曹丕に見初められ、寵愛されている。

このことから、曹叡は袁煕と甄氏との間で出来た息子という説が存在する。曹叡の生年を考えて曹丕の子とするには難しい、というのが曹叡は袁煕の息子という説が存在する理由である。しかし、袁煕は建安年間に幽州に転出して以降、甄氏は鄴に残っていたとある。『三国志』魏書袁紹伝の本編によると、202年9月~204年8月まで鄴およびその周辺は曹操軍に包囲されており、他州から助勢があったという記述もない。更に、「曹操に敗れた袁尚が、幽州の袁煕を頼って落ち延びた」という『三国志』魏書本編の記述と併せて、203年~204年の2年間、袁煕が鄴にいなかったことになり、曹叡が袁煕の息子であるという説は疑わしい。

ただし、『三国志』魏書常林伝注の『魏略』吉茂伝では吉本の乱以前から曹叡が武徳侯だったことになっており、15歳で武徳侯になったという明帝紀の記述とあわせると彼の生年自体がもっと前になる。

物語中の袁煕 [編集]
『演義』での字は、『三国志』の顕奕。父の袁紹からは柔弱で物にならない、と評されている。官渡の戦いで敗れた父を救うため、幽州の軍を率いて現れるが、倉亭の戦いで曹操軍に敗北し、高幹と共に矢傷を負う。袁紹死後の展開は、史実とほぼ同様である。

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